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アニメにおける同時間性

先週のもえたんであーくんが「ずっと俺のターン」と叫んだ時に思いついた事をこれから述べたい。

最初はアニメにおける共時性と言うタイトルにしようかと思ったのだが、おまえは共時性言いたいだけちゃうんかと言われそうな以上に、これから書く事は共時性とは違うだろうと言う点から避けた。

鉄腕アトムや鉄人28号の様な白黒アニメの時代、この頃のアニメにおける同時間性と言えば同じ学校に通う子供達の間で同じ番組を見てその体験を共有するものだった。地理的に非常に狭い範囲での共有だった。一方でその範囲内での同時間性は完全に守られていた。民生のビデオデッキも無い時代であったし。だが、視聴者と制作者側とでは同じ時間は全く共有していなかった。あの当時、制作したアニメの反響はせいぜい視聴率程度で視聴者の受けが良かったのだろうとか悪かったのだろうとかが推測できた程度だった。

この状態は長く続く。

やがてパソコン通信と言う通信手段を視聴者が手に入れ始めた所で事態は大きく動く。ちょうどその頃に巨大なヒット作として登場して来るのがセーラームーンだ。セーラームーン第1期が始まった時、視聴者側での共有感は微妙なものであった。きんぎょ注意報の後番組として始まったセーラームーンはそれまでに無い独特の世界が実はかなり早い段階でかなりの数の視聴者の心を掴んでいたものの、それが昨今のハルヒの様な瞬く間の顕在化は起きていなかった。つまり視聴者間での共有性はまだ前時代の陰を引きずっていたのだ。しかし、Niftyのアニメフォーラムでセーラームーン専用会議室が開設されるなど、共有感の伝搬度は前時代の比ではなくなりつつあった。そして第2クール以降にその影響がぽつぽつと出始める。あちらこちらのメディアで○ー○ー○ー○などの隠語で影響が広まりつつあるのが顕在化し、それは第1期の後半に一気に花開く。ここに視聴者側での同時間性の共有が全国レベルで行われる段階になったのだ。この流れは次のヒット作であるエヴァンゲリオンの放送時に確定して、シンジが乗ったエヴァがトウジのカプセルを握りつぶす第拾八話放送直後にパソコン通信内を覆い尽くした阿鼻叫喚がその最も顕著な現象となった。まさに視聴者側は確実な同時間性を手に入れたのだ。

次の大きな契機はパソコン通信がインターネットに昇華し、インターネットが常時接続が常態となった時に訪れる。既にパソコン通信の時代から放送時のチャットはあったが、ほんの少しチャットをするだけで月額通信費の請求金額が何万円にもなる様な時代にはそれができる人数は限られたものだった。それが真のリアルタイム性を以て実況チャットとして定着するのはインターネットの常時接続が普及した時である。ここに来て初めて視聴者は画面を見ながらチャットをすると言う同時間性を普通に手に入れる事ができる様になった。時間や転送量を気にしないので思いのままにメッセージが書き込まれる。ここで視聴者側では自分以外の視聴者との真の同時間性を得ると同時に、制作側は今放送したものがどんな生の反響を得たのかが見られる手段を手に入れた事になる。
昨年の4月期は涼宮ハルヒの憂鬱がこう言った土台を利用して瞬間湯沸かし器の様な反響の広がりを見せたが、おりしもその当時に金儲けのタームとして使われ始めていたWeb2.0と無理矢理組み合わされて「涼宮ハルヒのWeb2.0的成功」などと今から見れば恥ずかしいこじつけが唱道されたが、作品としての涼宮ハルヒの憂鬱は必ずしも同時間性を利用した物ではない。同時間性と言う面で明確な第一歩を踏み出したのはぱにぽにだっしゅ!の黒板ネタだ。黒板は本編と何の脈絡もなくしかも制作過程で最後に楽に書き込める地位にある為、ギリギリの時間的ネタを仕込む事ができる。おそらく黒板ネタが始まった当時はギリギリの時間的ネタを必ずしも意図していなかったかもしれない。とにかく面白いネタを書ける場所と言う位置づけだったのではなかろうか。だが黒板ネタが新谷監督の作品でその後ネギま!?→絶望先生と引き継がれるにつれ、次第に時間的に同時間性を強く帯びてくる。作品を重ねてネタを使い尽くしてきた以上ある意味当然の帰結かもしれないが、ここに制作側がはじめて視聴者に対するかなり近似的な同時間性を手に入れたのである。制作のスケジュールさえ許せばほんの一週間前、つまり前回放送の反響に対するネタを仕込む事もできる可能性が生まれた。黒板ではないが、もえたんのもえたんコーナーの貼り紙に「大阪版の視聴者のみなさんごめんなさい」とか書かれたら何としてくれよう。もっともそれもネット上に二次創作と言う形をした作品への反響が明瞭な形で存在すればこそできる事なのだが。

こうしてネット上での二次創作が視聴者側の受入可能なネタの空気を提供する道具となった時、制作側はそれを作品に取り込んで提供する事により視聴者と作品の同時間性を生かして反響に火を点ける事が出来る様になる。それが黒板であり、貼り紙であったが、それがもっと強烈に印象づけられたのが冒頭で書いたもえたんで登場するあーくんの「ずっと俺のターン」と言うセリフだ。背景となる黒板や貼り紙と異なり、本編上で明確に示されたこのセリフは強烈だった。脚本にそうあったのかあーくんの小野坂昌也氏のアドリブかは分からないが、最近ニコニコ動画で流行した「ずっと俺のターン」がもう作品で取り込まれているのだ。

この様な視聴者と制作側との同時間性はどこまで行くのだろうか。ネタの埋め込みばかりが同時間性ではない。ネットでの反響次第では放送が1年間などの長期に亘る(最近の尺度で言えば長期)作品は方向性を修正する事が起こりうるかも知れない。私は第1期のマイメロが逆の意味でネットでの評価を土台に突っ走ったのではないかと想像している。

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