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mixiで見直した「ホームビデオ」の価値

YouTubeが脚光を浴びた時、本来のスタート地点が個人の「ホームビデオ」動画投稿共有がサービスの建前ではあるが、その実はテレビなどからの動画の取り込みが盛んに行われ、実際に見られて評判になるのはそちらだ、だからホームビデオの投稿共有など存在価値など無い、などと言う感じの意見を持っていた。YouTube(そしてそれに倣った動画投稿共有サイト)に関しては今でもあまりそれと変わらない見方をしている。mixiが動画の投稿を始めた時も、なにも自前でYouTubeと同じインフラを作る事もあるまい、と思ったものだった。

その考えを思い直し始めたのは最近。

mixiにおいて自分が作成するコンテンツは原則として「日記」である。日記なのだから日常において様々な体験した事柄などが書き込まれる。そして日記の主力はあたりまえだが文字だ。だがそこに入り込んでくるのはカメラ付きの携帯電話が当たり前の様に普及した現在においては写真である。mixiの日記に貼り付ける程度の写真なら今の携帯電話の画素数で大体問題ない写真が撮れる。当然mixiの日記には写真付きのものが普通に書かれる様になる。

だが日常の体験は1枚のスナップショットで表現しきれる物ばかりではない。そこで登場するのが動画だ。これもやはり携帯電話に動画記録の機能がついて今では多くの人が動画を撮る事が可能になっている。そんなインフラが整備されたこの状況において、mixiは最初はプレミアム会員、そして現在は全会員に動画投稿を可能にした(携帯からの閲覧も可能である)事で、このインフラの利用を気づいた人達が動画付き日記を書き始めている。これこそが「ホームビデオ」に見いだされた価値だ。もっとも、携帯電話から入った世代では携帯による動画の投稿は既にかなり普及していると思う。はしなくも昨年11月に発覚した札幌白陵高校のいじめ動画の公開はその一端を示した。

日常生活において動画でこそ表現できる事象は沢山ころがっている。

マイミクでみかけた日記ではこの夏(この夏から一般に動画投稿が解禁された)の「激しい雷雨」とか「打ち上げ花火」とかがその日の日記として投稿されている。雷鳴は動画でなければ聞こえない。花火は動画でなければ広がりが分からない。まさに動画で表現するのに合致した素材だ。動画は文字上は「画が動く」と書かれるが何も画が動くものだけが素材ではない。その場で拾う「音」も重要な素材だ。虫の声を拾った日記も書けると言う訳だ。

これらはYouTubeに投稿してブログに書く事だって出来るでしょと言われるかもしれない。YouTubeの動画は確かにブログにプレヤーを貼る事で動画付き日記にする事ができるが、日記を書く行為においては「YouTubeに投稿」「ブログに投稿」と言う個別の二つの作業を行う事になる。それに対してmixiのそれは(UIが分離している面もあるが同じサイトに投稿すると言う点において)一連の作業となりハードルが極めて低くなる。こうして「ホームビデオ」としての動画付き日記の存在が普及して行くのだ。そしてこれはさらに携帯電話やあるいはコンパクト動画カメラ(mpegムービーカメラ等)に今以上の物を求めて行く事になるだろう。携帯電話には今よりももっときれいな動画を(YouTubeに投稿されている携帯動画の作者のコメントを見ると画質に不満のある事が感じられる)、コンパクト動画カメラはバリエーションを。今のコンデジにも動画の記録機能はあるが、使ってみれば分かるが静止画用のカメラの形は動画を撮るには相応しくないのだ。静止画は原則撮影ポジションを動かしてはいけない。一方動画の方は一点をじっと撮る動画はそうは多くない、どちらかと言うと動かすものだから。その時に動かしてはいけない様に作られた道具は非常に不便だ。

静止画ほどの普及度はそう簡単には望めないとしても(何しろ静止画の文化は一般人においても銀塩時代からの長い蓄積があった。一方で動画を撮る文化はデジタル以前にはほとんど普及していなかった)、デジタル化され日記に普通に使える位置を獲得した事によって動画を使う需要は今までよりも遙かに高まるものと思う。


ちょうど今台風が来ているので今晩あたり「ちょっくら川の様子を見てくる」動画を日記に投稿しようと思うw

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